昭和五十六年六月十一日 朝の御理解


御理解第八十七節「腹は借り物と言うが借り物ではない。萬代の宝じゃ。懐妊の時は神の氏子が我が体内に居ると思うて大切にせよ。」


 胎教という事を申します。親のお腹の中に子供が宿る。その子供に親の心の状態が反映する写るというのです。だから出来るだけ美しい物を見たり、綺麗なものを見たり自分の心を出来るだけ穏やかにしなければならないという訳でありますが、信心をさせて頂く者、心というか、それが何かそろばんで弾き出すような信心ではなくて、どこまでも信心者としての情操ね、が大切であると思うですね。教団でもこの情操教育というような事が言われましてね。教育者なんか集めてその情操教育の指導が毎年あります。私はそれはいろいろ指導を受けてそのまあ情操豊かにならなきゃならんですけれども、私はお道の信心でいう情操というのは心に有り難いと感ずる事だと思うんですけどね。有り難い事じゃなあと、勿体ない事じゃなあと、これが私やお道の信心をさせて頂く者の心の状態、いわゆる情操、そこからさまざまな問題も有り難いものにも、勿体ないものにも、又そこから開けて来るおかげであって本当のおかげだとこう思うんです。御用さえ頂けばおかげ頂くとこう割り切ったような信心がありますけどね。それじゃあいかん。やっぱり心の豊かさがお道の信心によって、云うなら豊かに大きくならせていただくという事。中身は有り難いというね、そういう有り難いという心に、例えばお母さんがなる事に努めたら、これ最高の胎教だと思うですね。これは懐妊とか女の云わば子供がお腹に宿ったという時だけではありません。私共はいつも神様との交流を願い、そして生み出すおかげという事が合楽では言われます。だから同じおかげでもその情操いかん、言うなら胎教いかんでよいおかげが、あか抜けしたおかげがね頂ける。おかげをただ頂いたというだけではなくてね。素晴らしい云うなら有り難いおかげが変わってくると思うんですね。昨日でした、田主丸の小野先生の御長男が今度九大の医学部を卒業して、まあお医者さんのいわゆる卵です。それが今度国家試験が出来ない者がわずかで殆どが出来るんだそうですれれども、その出来ない方の中に入ってしまった。神様にお願いしお取り次ぎを頂いてからの事だからの事にまあどうした事だろうかと思うたでしょうけれども、以来おかげで日参が出来るようになった。そして毎日まあ分かるか分からないか知らんけれども毎日御理解を頂いて帰るようになった。
 こりゃ大変なおかげで、それだけでもうおかげだったねと、私は言っておるのですけれども、昨日でしたか一昨日でしたでしょうか、ここへ出てまいりまして、先日丁度朝遅かったから八時半、私がいつも下がる頃に御理解を頂いておった。
 参拝をし合わせておる人、先生方、御結界に御用しておられる方達でも皆が一瞬しーんとなってしまう程しに私がここを下がる時には、黙祷致し御結界でも黙祷しとりますし、こちらへ居られる方達は御理解を頂いても、一応そのあのテープをきって、そして私が下がるその時間だけを、こうまあ云うなら拝礼をされておられます。そういう模様に触れて先生方が下がられるというだけなのだから、御理解をテープで頂き続けておってもいいでしょうかとこう言う訳です。止めずにね。それはそれでもいいだろうとね、けれどもね、私は信心ていうのはね、結局理屈じゃないんだとね。例えば、親先生が朝の三時から八時半、云うなら五時間なら五時間という時間を御神勤して下さって、私共の為に、その先生が下がっておられる、なら何かの手を止めて、例えばお結界でお取り次ぎさせて頂いとっても、その筆を止めてやはり先生が下がられる間黙祷して居る。これはそうせにゃならんとか、そうするという事になったのじゃないけど、合楽の場合はそうなんである。
 親先生ご苦労様というか、又は親先生を金光様のお手替わりとして親先生が下がられる時に、まあそう心を使うという事の方が有り難い事はないかね。例えば聞きよった御理解も一応止めて、そして皆があの御祈念の形をとります。私が別に御祈念の座に入る訳でもない。ただここから下がって、そこで神様に黙礼をしてこう下がる。その間はここでは皆がそう致します。だからまあ合理的といやね、お話しをして頂き続けよったが、時間も早くすむし、割り切った考えで、私は私の御祈念中でも御理解頂き続けておっていいよと私はいつも言うんです。けれども皆さんがあれを止めてここに居ります先生方も、私がここを下がらせて頂く時にこうね、その云うならば親先生有り難うございますというその心の状態そのものがね、信心だよ。おかげを頂く心がけはそういう心だよ。理屈じゃないんだ。はあやっぱそうですねという訳なんです。しかし僕はええ所に気が付いたね。だからそれをそうしなければならんじゃないけれども、そうさせてもらわずにはおれない心が豊かになっていくという事を願う。ただお願いをして切ってついだようにおかげを受けたとこういうだけではなくて、その間に自分の心がだんだん有り難うなっていくというね。そういうこりゃもう理屈じゃないけれども、そういう云うならば今日の御理解で云うと情操が出来てくるという事がおかげだよ。
 そういう情操の中に云うならば難儀なら難儀があるのである。その難儀を難儀とは言わずに、それこそ只今懐妊のおかげを頂いたと思うてその難儀では無い神愛としてこれを頂き育てる時に生み出されてくるおかげこそが本当の有り難いおかげであろうとこう思うんです。これは懐妊の時、子供がお腹に宿った時だけで無くて、私共がそこに昨日の御理解じゃ無いけれどもね。四十六節でした。私共は心がけておくといつもお徳を頂かせてもらえる、云うならチャンスはいつもあるのだという訳ですね。始終ろくというのは、ここでは徳といわれるから、いつもお徳を受けるチャンスがあるのだと。腹が立つね、寂しい思いをする時があるけれどもね、それを悲しいとか腹の立つで受けるのではなくて、それこそ懐妊のおかげを、よいおかげよいお徳が受けられる。
 云うならば元を頂いたとしてその事を大切にするといったような生き方が日頃、今有り難いという、私は宗教的情操という事を有り難いと云うふうに申しましたが、有り難いという心の時に分からせてもらう、云うならば問題であったらその問題が問題にならずに、その問題が力を受ける手立て、お徳を受ける手立てという事になるのですから、一事一事をです、そういう一つまあ胎教という事を申しましたが、おかげがいよいよおかげを生み出される事の為に心を整えておかなければならない。整えるという事は美しいものを見たり、又は奇麗な物を感じる為に、まあ演出をしてからでも、良い事を聞いたり見たりするというふうにまあ言われますけれども、信心の場合は自分の心ん中にいつも有り難い、勿体ないという心の状態で一切を受けていくね。もうそれこそ、これ以上の胎教はないだろう。成る程こういうおかげ、こういうお徳を力を受ける事の為のそれであったという事もだんだん分かってくる。いつの間にか自分の心がいよいよ情操が豊かになって、信心の情操が豊かになってくるという事は、信心は一年一年有り難うなってくると仰せられる。有り難いというものが理屈ではなしに、理屈抜きにしてその有り難いという心が心に備わってくるというか出来てくる。ね、そういう信心を目指したい。そういう信心を頂きたいと思う。  どうぞ。